ギラヴァンツ北九州・工藤孝太選手【和歌山県田辺市出身】
17歳で浦和レッズとプロ契約を交わした工藤孝太選手。2023年は育成型期限付き移籍で藤枝MYFCへ、2024シーズンはギラヴァンツ北九州でプレーすることが決定。数少ない和歌山県出身の現役Jリーガーにインタビュー。
目次
浦和レッズジュニアユースのセレクションに合格
きっかけは芸能の道へ進みたかった姉の高校進学
―サッカーを始めたのはいつ? きっかけは?
友達の誘いで、地元の「南紀JSC(ジュニアサッカークラブ)」の体験に参加したのがきっかけで、小学校1年生でサッカーを始めました。両親は大学時代体操選手だった影響もあってか、幼い頃から運動は好きで、得意だったのでいろいろ習わせてもらったけど、水泳もバスケも長続きしなかったんです。でも、サッカーはすごく楽しくて…。誘ってくれた友達は1年で野球に転向しましたけど。
―子どもの頃はどんな子でしたか?
母親が言うには、「クソ坊主(笑)」だったと。小さい頃から負けず嫌いで、サッカーもですけど、ゲームとかも絶対に負けたくなくて、勝つまで必死にやっていましたね。
―両親は体操選手を期待したのでは?
小さい頃から背が高くて…。体操選手には不向きと。
―田辺市のジュニアサッカークラブから浦和レッズのジュニアユースへはどうして?
僕が小学校6年生のときに3つ上の姉が、「芸能活動をしたい」「しっかりと英語が学べる学校に通いたい」と、首都圏の高校への進学を希望。父親は教師をしているので和歌山を離れられないけど、母親と姉が埼玉県に住むことになり、僕自身、当時、もっとレベルの高いところでサッカーをやってみたいなと思っていたので、Jクラブのアカデミーに興味があり、自分の意思で浦和レッズと大宮アルディージャのセレクションを受けました。「南紀JVC」のサポートもあって、浦和レッズジュニアユースに合格。もし、姉の進学先が大阪なら、ガンバ大阪やセレッソ大阪だったのかもしれません。
FWだった小学生時代、誰にも負けない自信
―小学校のころからサッカーの技術、センスはずば抜けていた?
自分で言うのも何ですが、周りの子たちに負ける気がしなくて。小学校時代はFWだったんですけど、がんがん得点をとることができて、正直、物足りなかった。でも、小学生のときは、いろんなことを深く考えずにただただ楽しくサッカーができたので、それはいい思い出です。
―浦和レッズのジュニアユースに加入して、どうでしたか?
確かに、今までより個々のレベルは高いと感じましたけど、そう思ったのは最初だけ。劣等感は全くなく、すぐにそのレベルに慣れるというか、普通にやれるようになって、負ける感じはしませんでした。
浦和レッズジュニアユース時代からすでにプロを意識
プロになれないと思ったことは一度もない
―プロを意識しはじめたのはいつごろ?
小学校の時にJFAの「夢先生」でJリーガーが来てくれて、すごくうれしかったんです。リフティング大会で1位になってサッカーボールをもらって…。その頃から、プロサッカー選手になりたいとは思っていましたが、本格的に考え始めたのは中学校3年生かな。以降、プロになれないと思った瞬間は一度もありません。中学校1・2年のときはレギュラーが固定化されていなくて、スタメンのときもあれば、そうでないときも。3年生からはずっとレギュラーでした。ちょうどこのころに、FWからDFにポジションが変わりました。
―浦和レッズユースに昇格して、17歳で2種登録選手としてトップチームに
その年のトップチームのキャンプに参加させてもらって、当時、浦和のDFは、槇野智章さん、阿部勇樹さん、岩波拓也さんたちがいたのですが、すごくレベルが高い人がいる一方で、CB(センターバック)の層があまり厚くなかったという運、タイミングもあって、僕の可能性に期待してもらえたんだと思います。左利きで背も小さいわけじゃないし…。
―自身の強みを自己分析すると?
ビルドアップもできて、ヘディングもキックも得意で、足も速い。あと、これまで一度も大きなケガをしたことがないことかな。
影響を受けた人、印象に残っている試合
―これまで指導してもらった監督、コーチで、影響を受けている人は?
ジュニアユース、ユースのときに見てもらった池田伸康さんですね。サッカー選手としての気持ちの部分を教えてもらいました。他にもアカデミーで一緒に過ごした仲間、指導してくださった監督、コーチ…、多くの人に助けられ、いい出会いだったと思います。
―一番印象に残っている試合は?
2021年のルヴァンカップ対横浜FC戦。公式戦デビュー戦で、できるなと思った部分、まだまだだなと思った部分、両方ありました。見に来てくれた家族はヒヤヒヤだったようですが…(笑)。
今の自分と10年後の自分
―10年後の自分を想像してください
全く想像がつきませんが、現役のプロサッカー選手でいたいという思いはあります。5年後に小さい頃から憧れていたドイツでプレーして、スペインやイングランドも興味があり、10年後には日本に戻ってきて…というのが理想。あと、僕が小学校のときに「夢先生」が来てくれたように、夏休みとか、年末とかに地元のサッカースクールで子どもたちにサッカーの楽しさも伝えたいですね。
―今の自分に点数を付けるとしたら?
小さい頃からのプロサッカー選手になるという夢は叶えられたので50点。もっと試合に出て活躍するのが目標。
和歌山の思い出とプライベート
幼少期から小学校卒業まで過ごした田辺市
―和歌山での思い出は?
隣の空き地で毎日ボールを蹴っていて、実家の外壁がへこみ、柵が曲がって父に怒られました。今は家が建って空地ではなくなってしまったけど…。あと、小さい頃は毎週、白浜の温泉に連れて行ってもらっていたなと。あと、小学校の修学旅行で行った京都がすごく楽しい思い出で。大人になってもう一度行ってみたいなと思い、オフシーズンに清水寺に行ってきました。こんなんだったかな~って感じでしたけど。
和歌山はふるさとであり、落ち着く場所
―工藤選手にとって和歌山とは?
僕にとって和歌山は小学校時代の思い出しかないけれど、それでもやっぱりふるさと。たまに帰りたいな~って思うし、落ち着きますね。「南紀JSC」の仲間は今でも友達で、帰ってきたら集まったりします。
―地元で絶対食べるものや記憶に残っている味は?
「俺ん家のジュース」「俺ん家のウメ」は大好きで、今も実家から送ってもらったり、帰ってきたときには買って帰ります。
―最近のお気に入りは?
愛犬「テンちゃん」に癒やされること。YouTubeでレイクレ(Lazy Lie Crazy)を見ること。
出場機会を求めて浦和レッズから藤枝MYFCへ
戦術も環境も異なる静岡県で成長した一年
―2023シーズン、J1浦和レッズからJ2藤枝MYFCへ
“試合に出てこそプロ”というのが大前提。試合に出られないことがすごくしんどくて…。リーグ戦、カップ戦で中3日で試合というケースもあるのですが、体に疲労感はあってキツイですけど、やっぱりプレーできることが楽しいし、試合に出られるのと出られないのでは、気持ちの余裕が全然違います。出場機会を求めて育成型期限付き移籍で藤枝MYFCでプレーすることを決めました。
―当然、チームが違えば監督の戦術も異なります
これまでのサッカー概念が変わりました(笑)。藤枝は観戦している人が面白いと思うサッカーをするチームだと思います。練習からとにかく走る、走る、走る。ポジションに関係なく攻撃参加が求められ、“リスクを負うサッカー”に最初は戸惑いもありましたけど、よりタフになれました。
―タフになった以外、移籍して成長したなと思うことはありますか?
埼玉では母と姉と暮らしていて、初めての一人暮らしで人として成長したと思います。誰も知りないがいない中で、僕、いい意味で子どもっぽいところがあって、先輩たちにすごくかわいがってもらい、人間としてレベルアップできました。
2024シーズンは北九州へ、武者修行は続く
―さらに2024シーズンはJ3ギラヴァンツ北九州でプレーすることを決断
サッカーに関しては決して恵まれた環境ではない和歌山県で生まれて育ってもJリーガーになれるんだというのを、もっと活躍して希望を与えられるようにがんばります。
【プロフィール】くどう こうた/2003年8月13日生まれ、田辺市出身。小学校1年生のときに南紀JSCでサッカーを始める。浦和レッズジュニアユース、浦和レッズユース、2021年に2種登録選手としてトップチームに。ルヴァンカップで試合に初出場。世代別の日本代表にも選出。2023年藤枝MYFC、2024年ギラヴァンツ北九州へ育成型期限付き移籍。左利き、DF(CB)。インスタ▷@kota.kudo_
取材/2023年12月26日和歌山県田辺市の秋津野ガルデンで
記者・ライター・編集者歴21年。硬派な記事も軟派な原稿も書きこなせるけれど、偏食家のためグルメレポは結構ツライ。ちょっと変わり物なので、独特の視点で表現するとよく言われ、その個性は大事にしつつ、正確な情報を伝えます。ビールが好き、韓国が好き!