和歌山大空襲から守った日記 22冊を寄託

日記に貼られた野上保一さんの写真

寄託された時資さんの日記

寄託された時資さんの日記

日記に貼られた1枚の写真。眼鏡を掛けた軍服姿の凛々しい男性が立っている。同じページには、男性が日記の主に宛てたはがきも残され、表の「検閲済」の印や差出先の「旅順市満州第一三七部隊」の文字から、男性は太平洋戦争で満州に出征したと思われる。男性の名前は「野上保一」さん。日記の主の三女、和歌山市出身で兵庫県川西市の島美代子さん(86)は、野上さんの子孫にはがきと写真の存在を伝えたいと、6月に和歌山市立博物館に和歌山大空襲から守った父の日記22冊を寄託した。

日記を付けていた島さんの父、井邊時資(ときし)さんは、和歌山市鼠島(現築港付近)で海運業の丸紀海運㈱を経営。当時、繊維産業が盛んだった和歌山に綿や物資を運ぶ仕事をしていた。1943年2月、フィリピンに社員と船とともに徴用され、1945年2月、同地で帰らぬ人となる。

日記には、時資さんが高校生の頃から徴用直前まで、日常や家族、会社のことが丁寧に記されている。「父の姿を最後に見たのは小学校1年生の時。忙しい父が家を空けることは珍しくなかったのに、戦地に赴く時は寂しく、涙がぽろぽろ止まらなかったのを覚えています」と島さん。遺骨はなく、一緒に行っていた親戚が爪や銀歯、頭髪の一部を持ち帰ってくれたという。

島さんも1945年7月9日から10日未明に発生した和歌山大空襲で被災、下町にあった自宅は全焼した。島さん家族は和歌山城北側の汀丁に避難しようとしていたが、紀の川の方へ誘導する男性の声に従い、母と姉2人で逃げた。その日、汀丁では火災旋風が発生、多くの人が亡くなっている。「もし、私たちも汀丁へ逃げていたら死んでいたかもしれない。あの時の声は亡くなった父だったのかな」としみじみと振り返る。

父の形見となった日記は避難の直前、自宅土間に掘っていた非常用の穴に埋め、土をかけた。全焼した自宅に戻ると、日記の上に置いていた食料は全て真っ黒に焼けてしまっていたが、日記の大半は無事だった。

父が生きた証しでもある記録を、子どもや孫にも伝えたいと日記を読んでいた島さんは、野上さんの写真と軍事郵便のはがきを見つけた。そこには「私も歸(帰)った節は留守中の御恩がえしを致しますから何卒私留守中は面倒を見てやってくださいませ」とあり、文面からは、おそらく同社社員であった野上さんの時資さんへの義理深さ、自身の年老いた父親を案じる優しさが伝わってきた。「律儀で立派な方。こんなに素晴らしい方だったということを子孫の人に伝えたい」と島さんは話している。

記事元: わかやま新報 ※掲載記事内容は記事提供元で過去に掲載された内容になります。