
戦乱の世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康をまつる、紀州東照宮(和歌山市和歌浦西)の大祭「和歌祭」が、今年400年を迎えます。節目の年、舞台は和歌浦地区から和歌山城周辺へ。総勢1000人が、かつての城下町を練り歩きます。
目次
城下を挙げた“民衆の祭り”として
和歌山を元気づけ、未来へつなぐ
和歌祭は、1622(元和8)年から行われている、紀州藩初代藩主・徳川頼宣の父・家康を「東照大権現」としてまつる紀州東照宮(和歌山市和歌浦西)の祭礼です。400年もの間、縮小や中断・再開を繰り返すなど、時代の流れとともにさまざまに形を変えて継承。全国各地にある東照宮の祭礼をみても、江戸時代の渡御行列が現存しているのは数えるほどといわれています。

明治、大正、昭和、平成、令和と時代を越え、和歌祭は一体どう受け継がれてきたのでしょうか。
「和歌祭四百年式年大祭実行委員会」によると、藩制度が廃止された明治時代に入ってからも、旧藩主や後援会などの後押しによって祭礼が継続していたとのこと。しかし、戦時体制の強まりで1937(昭12)年に中断。戦後、48(同23)年に復活し、翌49(同24)年からは、和歌山商工会議所の「わかやま商工まつり」のパレードの一つとして行われていました。
85(同60)年、和歌浦地区の人たちが中心となり、「和歌祭保存会」を結成。その後、青年部(現・和歌祭実行委員会)が誕生し、より勢いづくことに。そして2002(同14)年、和歌浦一体での渡御行列の再開を果たします。以降、途絶えていた「御船歌(おふなうた)」などが復活するなど、さまざまな人が関わり、支えています。


そういったことからも和歌祭は、年齢、性別、出身地に関わらず、誰でも参加できるのが特徴。“民衆の祭り”といわれたように、江戸時代から城下挙げての祭礼だった流れが伺えます。青年部発足からのメンバーで、同大祭実行委員会の委員長・中山勝裕さんは、「コロナ禍で世の中ががらりと変わりました。400年の大祭は、和歌山を元気づけ、未来につなぐ祭りに」と力を込めます。
大祭実行委員長の中山さん
子どもたちに地元の良さを伝える
2020年2月、「和歌祭四百年式年大祭実行委員会」が発足し、委員長に選任された中山勝裕さん。青年部の発足から一緒に活動している保井元吾さんは、中山さんについて「一言で言うと“縁の下の力持ち”。青年部ができてからずっと皆の相談に乗り、支えてくれています。だからこそ、今回の委員長は中山さんに、というのは皆の願いでした」と振り返ります。
和歌浦地区で生まれ、和歌祭とともに育ってきた中山さん。「自分の子ども時代に比べると、人口減など、かつてのにぎわいが失われているのを感じます。県外に住んでいても、“祭りになれば地元に戻る”など、皆が集まり、交流できれば」と、思いを話します。
中山さんの日課は早朝の和歌浦の風景を撮影すること。健康づくりに始めたジョギングの途中、ポケットにしのばせたカメラで朝焼けや流れる雲など、その瞬間を捉えます。中山さんは「同じ景色に出合うことはなく、毎日発見があります」と目を細めます。
写真を毎朝、フェイスブックで発信したところ、友人の間で話題に。うわさは地元の子どもたちにも広がり、「見守り隊」として、和歌山市立和歌浦小学校まで登校する子どもたちを送る間、写真の話で持ち切りになるとも。中山さんは「子どもたちに歴史や文化など、地元の良さを伝えていきたいです」と話しています。

約1000人が演舞などを披露
和歌山城とその周辺を練り歩く
江戸時代、「和歌の浦には名所がござる、一に権現(紀州東照宮)、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃(しおがま)よ」と歌われるなど、和歌浦地区は古くから風光明媚(めいび)な景勝地として知られていました。
この歌に登場する紀州東照宮は、1621(元和7)年、紀州藩初代藩主・徳川頼宣が、父・家康を「東照大権現」としてまつるために創建。「和歌祭」は、家康の命日に合わせて翌22(同8)年から始まりました。
和歌祭の渡御行列は、東照大権現を乗せた神輿(みこし)からなる「渡り物」と、山車(だし)や踊りなどの「練り物」で構成されています。和歌山大学紀州経済史文化史研究所の吉村旭輝准教授は「残された屏風(びょうぶ)や絵図などを見ると、華やかな衣装を着て踊ったり、笛を吹いたり、当時のにぎやかな様子がうかがえます」と説明。「藩主が臨席する中、城下の町民が練り物で参加し、一体となる祭りは、全国に数ある東照宮の祭礼を見ても古く、先進的な事例といえます。そういったことからも『風流の祭り』、また、『民衆の祭り』とされてきました」と続けます。
400年目の今年は「和歌祭四百年式年大祭」とし、5月15日(日)、和歌山城とその周辺で行われます(主催=同大祭実行委員会)。渡御行列は、正午にフォルテワジマ前(和歌山市本町)を出発。神官や巫女(みこ)に続き、「株」と呼ばれる芸技集団など約40種目、総勢約1000人が色とりどりの衣装に身を包み、演技を披露しながら和歌山城までを練り歩きます。 また今回、時代劇で8代将軍・徳川吉宗を演じた俳優・松平健さんが来和。殿さまの衣装で白馬に乗った松平さんを先頭に、侍など約40人が、和歌山城周辺を練り歩き、祭りを盛り上げます。





途絶えていた芸能3種目が復活
今年の和歌祭は、記念事業の一環として、途絶えていた芸能「棒振(ぼうふ)り」「獅子」「童子(どうじ)」が復活します。「これらは神輿を先導し、道を清める重要な役割を担っていましたが、江戸時代後期から徐々に失われました。復活は今後、歴史的・文化的価値としての大切なものとなるでしょう」と、和歌山大学紀州経済史文化史研究所の吉村旭輝准教授は話します。
獅子頭や衣装などは、「東照宮縁起絵巻(1646年、紀州東照宮蔵)」を参考に再現され、地元の企業や学校が「株」組織として新たに文化を引き継ぎます。吉村准教授は「担い手を広げることで“自分たちの祭り”という機運もより高まっています」と話しています。


紀州初代藩主・徳川頼宣ってどんな人?
徳川頼宣は、徳川家康の10男として1602(慶長7)年に伏見城(京都市)で生まれました。母は上総(千葉県)の土豪正木邦時の娘のお万の方(養珠院)。家康が61歳のときの子でした。
わずか2歳で水戸城主(水戸市)となり、幼少のために家康の側で育てられ家康と同じ駿府城(静岡市)で生活していました。1609年、頼宣は家康から領地を加増されて駿河・遠江(ともに静岡県)・東三河(愛知県)50万石の領主となり。その後、父家康が死去して3年後の1619(元和5)年に、兄の2代将軍秀忠によって家康より譲られた駿府城から和歌山城に移されました。
幕府の支配を安定させるためには、政治の中心である江戸と経済の先進地大坂を結ぶ幹線航路をおさえる必要があったため、航路の喉元にあたる紀伊半島に最も信頼できる大名を置く必要があったと言われています。
こうして頼宣は、5万5,000 石を加増されて紀伊・伊勢(和歌山県・三重県)両国55万5,000石の大名になりました。
和歌山に移った頼宣は、幕府の期待に応えるように領国の安定につとめました。頼宣の紀州藩主時代は、1667(寛文7)年に隠居するまで48年間に及びますが、この間、藩の体制を確立するために多くの政策を実行しています。
頼宣は、和歌山城を大修築し、城下町の整備をし、また旧勢力の在地武士たちを地士として懐柔するなど、領内統治の基礎を固めたとされています。
産業の開発や土木工事を奨励したこと等で藩の財政は窮乏していきますが、牢人を多数召し抱えて人材の登用に努力し,財政難を殖産興業によって切りぬけるなど藩体制確立につとめています。
また頼宣は、名所旧旧跡の景観などを守ることにも熱心でした。ある日、家臣が和歌浦周辺など、7・8か所の絵図をもって新田開発が必要なことを説きました。このとき頼宣は,「自分の欲望のために名所旧跡をこわして新田にしたと、後世の人に笑われたくない」と,名所旧跡を守るように命じています。
人柄は豪気な性格で、父家康を祭るために東照宮を、母お万の方の位牌を安置するために養珠寺をいずれも和歌浦に建立するなど大変親孝行だったと言われています。
さらに、主産業である米作だけではなく、紀州漆器の黒江塗やミカンの栽培など、現在の和歌山につながる産業を推奨して紀州藩を大藩へと育て上げました。
家康をまつる 「紀州東照宮」

徳川頼宣が、南海道(現在の和歌山、淡路島、四国)の平和を守る神社として創建。和歌浦湾を望む雑賀山に鎮座し、「関西の日光」とも呼ばれるなど、古くから「権現さん」の愛称で親しまれてきました。本殿には、江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した「東照大権現」、頼宣を神格化した「南龍大神」がまつられています。
社殿は、江戸時代に流行した「権現造り」で、組み物や彫刻が多く、漆塗りであでやかな彩色が施されているのが特徴。当時活躍したとされる彫刻師・左甚五郎の「鷹(たか)狩り」(右上写真)や、狩野派の絵師・狩野探幽の壁画などを見ることができます。社殿を含む、境内の7棟が、国の重要文化財に指定されています。


名称 | 紀州東照宮 |
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所在地 | 和歌山市和歌浦西2-1-20 |
電話番号 | 073-444-0808 |
web | http://kishutoshogu.org/ |

和歌祭四百年式年大祭に関する詳細はこちら→ http://wakamatsuri.com/400th
↓和歌祭りパンフレットはこちら↓


写真提供(和歌祭実行委員会)
リビング和歌山4月23日号に記事掲載
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