特攻生存者の体験聞く 大和艦隊鎮魂の歌③

曲作りの取材で訪ねた池田さん㊥、岩田さん㊧と

元海軍中尉の池田武邦さんは静岡県の出身で、昭和15年、神奈川県立湘南中学校を出て16歳で広島県江田島の海軍兵学校へ入校。18年、軽巡洋艦矢矧(やはぎ)の航海士官となり、20年4月7日、戦艦大和などとともに沖縄への海上特攻に出撃した。計10隻の第二艦隊は鹿児島県薩摩半島沖の東シナ海で戦闘となり、池田さんが測的長を務める矢矧は直撃弾12発、魚雷7発を浴びて沈没。池田さんは甲板から海に落ち、弾薬庫と機関が爆発して沈む大和の最期を見届けた。その後も敵機は執拗に機銃の雨を降らせる。助けられるという希望はまったくなかった。「ただ死を待つだけ」の血の海を立ち泳ぎで漂流すること約5時間半、奇跡的に仲間の艦に救出された。

21歳で終戦を迎え、東京へ戻った池田さんは焼け野原の都心を見て愕然とした。「これはもう、日本を何とかしなければと思った」。翌年、東京帝国大(現東京大)工学部に入学し、卒業後は大手設計会社に就職した。国内初の超高層ビル、霞が関ビルの設計チーフを務め、昭和42年には仲間と共に独立。日本設計事務所(現日本設計)を設立し、京王プラザビルや新宿三井ビルなどを手掛け、代表取締役社長、同会長を務めた。

平成3年、鹿児島県枕崎市の商工会議所が展望台建設事業を決議した後、1人の男性が鹿児島から東京まで池田さんを訪ねて来た。現在の展望台奉賛会会長、岩田三千生さんの父で、当時の商工会議所の岩田三千年会頭だった。池田さんは三千年さんの熱意にうたれ、展望台建設を応援した。4年後に完成した展望台には3721人の戦死者を追悼する殉難鎮魂之碑、平和を願う女神像などの他、池田さんが揮毫した「祖国(くに)のため 命さゝげし ともがらの御霊(みたま)安かれと 永久に祈らん」の石碑も設置されている。

昨年10月、今度は展望台のイメージソングを作りたいと、鹿児島からミュージシャンを名乗る男が訪ねて来た。池田さんは宮井さんに、「シンガーソングライターってどんな仕事だ。食っていけるのかね」と笑っていたが、話が戦争になると表情が一変した。目を閉じて遠い記憶をたどり、「やっぱり一番つらかったのは、友の死だな…」とつぶやいた。625人いた海軍兵学校の同期のうち、マリアナ、レイテ、沖縄の三つの海戦に参加したのはクラスで1人だけ。全体では半分に満たない290人しか生き残らなかった。

3度目の出撃命令は特攻。「これでようやく自分の死に場所が決まったという思いで、とてもサバサバした気持ちだった」が、期せずして一生を得た。あの日から72年の月日が流れた今なお、夜になると兵学校の仲間を思い出す。「戦争なんてものは、理不尽そのものなんだよ。どんなにこっちが品行方正でも、戦場に行きゃいきなり殺られちまうんだから」「いまの時代はいいよな。殺されねえんだもの」。冗談のように笑いながらも、死線を越えた人の言葉は重い。戦後は日本の復興のため、信念を貫き通した気骨の人の言葉が宮井さんに響いた。

鹿児島へ戻り、ギターを手に曲作りに入ったとき、亡き友を思う池田さんの目線になった。「いまの時代の自分たちは、多くの犠牲のうえに生かされている。だからこそ一生懸命生きなければ」。若い人たちがそう考えるきっかけになればと、池田さんが展望台から海を眺める姿をイメージしながら、平和を願い、言葉を紡いだ。

(続く)

記事元: わかやま新報 ※掲載記事内容は記事提供元で過去に掲載された内容になります。