追悼式に現れたトンボ 大和艦隊鎮魂の歌④

4月7日の平和祈念展望台慰霊行事で「千の蜻蛉」を歌う宮井さん(南日本新聞社提供)

「大東亜戦争」末期、本土防衛の最前線となった鹿児島県には、何カ所もの航空機の特攻出撃基地が造られた。有名な知覧(ちらん)と鹿屋(かのや)の他にも指宿(いぶすき)、万世(ばんせい)、出水(いずみ)、串良(くしら)、国分(こくぶ)などの基地があり、各飛行場から連日、多くの少年兵が祖国の起死回生を信じ、沖縄の海へ飛び立った。

南九州市の知覧特攻基地からは、沖縄戦で出撃した陸軍の全特攻戦死者1036人のうち半数近い439人(徳之島と喜界島の経由を含む)が出撃した。基地の近くには軍指定の食堂「富屋」があり、経営者の鳥濱トメさんは隊員たちから「おばちゃん」と呼ばれ、母親のように慕われていた。昭和20年6月5日、その日が20歳の誕生日だった宮川三郎軍曹は翌日の出撃を命じられ、一緒に出撃する滝本伍長と共に富屋食堂で誕生祝いと出撃のはなむけの料理をいただいた。そのとき、宮川軍曹は「おばちゃん、俺、心残りは何にもないけど、死んだらまたおばちゃんのところへ帰ってきたい。明日の晩の9時ごろ、蛍になって帰ってくるから、店の引き戸を少し開けておいてくれよ」と言い残し、翌日、宮川軍曹は出撃して戦死。その夜、富屋食堂に一匹の大きな蛍が飛んできたという。この話は高倉健主演の映画「ホタル」でも描かれ、不思議な悲話として語り継がれているが、これと似た出来事が第二艦隊戦没者を慰霊する平和祈念展望台でもあった。

平成13年4月7日の追悼式開式直後、出席者の頭上にトンボの群れが飛んできた。トンボの季節といえば夏から秋。奉賛会副会長の岩田三千生さん(現会長)は「いまの時期に珍しいな」と首をひねった。それはいつの間にか展望台を埋め尽くすほどの大集団となり、軍艦旗の掲揚、黙とうなどが続く間、低い羽音を響かせ、ヘリコプターのホバリングのようにじっと動かなかった。映画「ホタル」が公開された年、時間は大和などが敵の猛攻にさらされていた午後2時すぎ。岩田さんは「海上特攻で亡くなられた英霊の皆さまがトンボの姿を借りて、私たちに会いに来てくれたんだと思います」と振り返る。

宮井さんは展望台のイメージソングを作るにあたり、この不思議なエピソードに感じるものがあった。タイトルは「千の蜻蛉(かげろう)」とし、大和とともに沈没した矢矧の生存者、池田武邦さんが展望台の石碑に刻んだ戦友への想いも込めて詞を書き、メロディーをつけた。

もう一度会いたいと願いを 叶えし友垣姿は

卯月の空高く飛び回る 千の蜻蛉

群青の涙に染まりゆく 深き心の哀しみは

せめて君よ安かれと願い 永久に祈らん 千の蜻蛉

ことし4月7日、宮井さんは展望台で行われた慰霊行事で初めてこの曲を披露した。雨の中、第二艦隊戦没者の遺族や関係者約100人は目をつむって耳を傾けた。あの日から72年が過ぎ、「水浸(みづ)く屍(かばね)」となった3721人の英霊が眠る海に向け、いまを平和に暮らせることへの感謝を込めた。

「あのとき、(第二艦隊など日本の兵士が)命を懸けて戦ってくださったおかげで、いまの平和な日本がある。池田さんの壮絶な戦争体験にふれ、そのことをより強く思うようになりました」。歌うたいとして岩田さんや池田さんと出会い、おとぎ話のようだった昭和の戦争が、温度を持った最近の出来事だと感じるようになった。

「千の蜻蛉」は動画サイト「ユーチューブ」で公開中。今月31日発売の2年ぶりのアルバム「青写真」にも収録されている。

記事元: わかやま新報 ※掲載記事内容は記事提供元で過去に掲載された内容になります。