古代玉津島の場所に新説 藤本名誉教授が著書で

新著を手に和歌の浦の歴史を語る藤本さん

和歌山大学名誉教授の藤本清二郎さん(70)=和歌山県和歌山市=が著書『和歌の浦・玉津島の歴史―その景観・文化と政治―』(和泉書院)を出版した。古代の玉津島の場所について新説を提示し、「和歌の聖地」として知られる和歌の浦の歴史の捉え方に、景観を重視する観点から一石を投じている。さらに、玉津島神社古文書の研究から、上皇がお忍び参詣するなど朝廷と深いつながりがあった近世の同神社の歴史を明らかにしている。

聖武天皇は神亀元年(724)に紀伊国に行幸し、『続日本紀』には10月8日に「海部郡玉津嶋」に到着したことが記されている。最近の研究では、玉津島は一つの島の名称ではなく、紀ノ川(現和歌川)河口部西方の島々、現在の船頭山・妙見山・雲蓋山・奠供(てんぐ)山・鏡山・妹背山のことで、聖武天皇の行幸時、現在の雑賀山方面から南東に向くと、これらの島々(山々)が複数の玉が緒でつながれたひと塊に見えたとして「玉の緒をなす玉津嶋山の景観」と評価されている。

藤本さんはこの説を採らない。『続日本紀』の「海部郡玉津嶋」との表記は地名的要素を強く持つとし、「玉津嶋」は地元の人々が呼び習わした名が地名となってすでに存在していた可能性が高く、地元勢力である日前宮の紀氏もそのように呼び、水辺の神事を行っていたと考えられるとする。

和歌浦の古代地形を推定復元した上で、空中写真による地形認識がない古代において、雑賀山から見て「玉の緒」状の景観を見て取ることは容易ではないとも指摘。地上の地形認識から、半球状で水面下から巨大な水泡が吹き出したような特徴的な形状の岩山である現在の「奠供山」が、玉津島と呼ばれるようになったと見る新説を提示している。

聖武天皇の詔によって「明光浦」に改名された「弱浜」については、通常「わかのうら」「わかはま」と読みをつけることに疑問を呈し、軟弱な地盤の干潟が存在した地形的特徴を率直に捉え、「よわはま」と読むべきとする。さらに、否定的な意味合いの「よわはま」を神聖な場所と解釈される「明光」に変更したことには、地元勢力(紀氏)による従来の地域秩序を変える政治的意味があったとの見解を示している。

聖武天皇に随行した山部赤人の歌に登場する「若浦(わかのうら)」の言葉を出発点に、和歌の浦の歴史を文化的な「和歌」から捉える向きが多い中、藤本さんは「和歌の浦のスタートである玉津島の景観が文化よりも先にあり、それを発信したのは政治だった」と話す。

江戸時代の玉津島神社古文書からは、朝廷と同神社の深い関わりが浮かび上がり、春秋の祭礼の詳細な内容や、朝廷から使者が派遣されていたこと、天皇や上皇が和歌を奉納していたことなどが明らかにされている。

藤本さんは同古文書の全てを筆跡や紙背まで研究し、目録化しており、目録番号で232点、撮影写真のコマ数で1185枚に及ぶ。

特筆すべき歴史として、天明3年(1783)4月、女帝の後桜町天皇が退位して上皇となった後、同神社を参詣している。上皇は身分を隠し、代理で参拝する女官として訪れており、極めて珍しい例だという。

参拝の30年後、紀州藩によって神主や現地の関係者に聞き取り調査が行われており、上皇一行の籠や装束、宿所の様子などが記録されている。また、上皇の居所の取り次ぎ役の手紙には、神主に対し気の毒、迷惑などと困惑と弁解の言葉がつづられ、参詣を冷ややかに見ていたこともうかがえる。

8代将軍・徳川吉宗が奉納したと伝えられる狩野古信(ひさのぶ)の「和歌浦図」や桑山玉洲の「若浦図巻」など、和歌浦を描いた絵画と描かれた景観についての章もある。

藤本さんは「和歌の浦、玉津島について、和歌の観点だけでなく、総合的に歴史として位置付けたものが書けた」と話している。

A5判、192㌻、税込み2160円。

記事元: わかやま新報 ※掲載記事内容は記事提供元で過去に掲載された内容になります。